TOP ぬかぴーのツブヤキ ╞╪╡ 鐵 學 ╞╪╡ (48)  都内の幻の駅(8)

ぬかぴーのツブヤキ

発信者:ナナわんこ
2024.12.13

╞╪╡ 鐵 學 ╞╪╡ (48)  都内の幻の駅(8)

「鐵學(てつがく)」と称して、永遠に交わることのない2本のレールにまつわるお話をツブヤいています。
前回まで京成電鉄上野線の幻の駅を詳しくご紹介しましたが、今回は他にもあった都内城北部の幻の駅のお話です。

東武鉄道・伊勢崎線「中千住」駅

京成電鉄を離れて、今度は東武鉄道・伊勢崎線の幻の駅です。東武鉄道は1899(明治32)年に北千住駅~久喜間駅が開業し、現在では東日本最大の私鉄にまで発展しました。都心方面へは1902(明治34)年に北千住駅〜吾妻橋駅(現とうきょうスカイツリー)間が開通、その後1924(大正13)年に北千住駅~牛田駅間に中千住駅が開設されました。当初は「千住駅」という名称で、1930(昭和5)年に中千住駅となりました。

千住には中千住、西千住の二つの幻の駅がありました 「大東京精密地図 滝野川・荒川区」1946.6(日本研究社発行)の一部を加工

この駅も北千住駅と至近であるためか、やはり太平洋戦争末期の1945(昭和20)年に営業休止(事実上の廃止)となりました。
いまも「開かずの踏切」として有名な大踏切のそばにあった中千住駅の痕跡はまったくありませんが、駅があった場所には開業時の赤レンガ造りの小さな地下歩道が残されており、一見の価値があります。この地下歩道は1902年の開業時に恐らく水路として作られたと思われ、明治期のレンガ積み構築物として貴重なものです。

もしもいま前掲の地図のように西千住駅や、この中千住駅があれば、北千住、南千住、千住大橋を加え5つの「千住」駅があるわけで、浦和のような楽しいラインナップでは?と思うのは、千住生まれの私だけでしょうか?

中千住駅跡(画面奥が北千住駅) 左手前の用地に東武鉄道の蒸気機関車(ピーコック)が乗る小さな転車台がありました
開業時の複線幅(手前)がレンガ積み、その後の線増部分(奥側)はコンクリート造りになっています

東武鉄道・伊勢崎線「隅田公園」駅

この地図には、なぜか鉄道の駅名が抜けていますが、地図上の○印が「隅田公園」駅です。
以前ご紹介したように、戦前の私鉄は都心乗り入れが悲願であり、東武鉄道は1902(明治34)年に北千住駅〜吾妻橋駅(現とうきょうスカイツリー)間が開通、そして悲願の隅田川越えを1931(昭和6)年に浅草雷門駅(現・浅草)〜(吾妻橋⇒)業平橋(現・とうきょうスカイツリー)間の1.1㎞を開業させることで果たし、その際に「隅田公園」駅も開設されました。

隅田公園駅は隅田川を望む絶好のロケーションにありました 「大東京精密地図 浅草・本所区」1946.6(日本研究社発行)の一部を加工
隅田公園駅跡、かつての駅建物は橋脚間にありましたが2013年に解体され、その後に写真の飲食店などの店舗が作られています
手すりのある橋脚部分がかつてのホーム跡(右側に延びています)

関東大震災の復興公園である隅田公園の最寄り駅として立派な屋根付きホームが作られましたが、1945年の東京大空襲で焼け落ちたそうです。
しかしそれ以前に隅田公園駅はやはり浅草雷門駅(現・浅草)と業平橋駅(現・とうきょうスカイツリー)が至近なことで太平洋戦争中の1943(昭和18)年に不要不急としてに営業休止(事実上の廃止)になっていました。

この駅もいまはまったく痕跡がありませんが、私の記憶には隅田川を渡る橋梁の手前に、相対式のホーム跡があったことや、高架橋下の建屋の壁には、段々になった階段の跡が残されていたことを覚えています。(つづく)