ぬかぴーのツブヤキ
╞╪╡ 鐵 學 ╞╪╡ (12) 鉄道貨物と水運
「鐵學(てつがく)」と称して、永遠に交わることのない2本のレールにまつわるお話をツブヤいています。
信号の沼に深入りしてマニアックになりましたが、今回は鉄道の貨物輸送と水運のお話です。
鉄道ができる前の物流は水運が担い手
わが国の鉄道は、1872(明治5)年10月14日に新橋(現・汐留)と横浜(現・桜木町)間が開通しましたが、開通時の旅客と貨物の収入をみると、貨物収入は5%足らずで、高い料金を払って乗ってくれる旅客が主体でした。しかし国の直営鉄道だけではなく、民間の鉄道会社が路線を延ばすにつれて、その目的は貨物輸送が主体となります。今の東北線や高崎線も私鉄の日本鉄道が敷設し、地方の物資(農産物や石炭など)を東京に運ぶようになります。道路網が未整備だった明治時代までは、水運(河川や沿海航路)が物流の担い手でしたが、明治期以降は陸路を行く鉄道は天候に左右されず高速に物を運べることもあり、物流の主体になっていきます。しかしそれは遠隔地間の物流であり、都市間や市内は道路も未整備で自動車輸送はまだ先の話です。
鉄道と水運のハイブリッドな時代
現在の物流の主体は自動車ですが、第2次世界大戦後から1960年代の高度成長の時代までは貨物はもとより郵便・新聞・小荷物はすべて鉄道輸送に頼っており、自動車は市内での配送程度の役割しかありませんでしたし、市内での大量な貨物はまだ水運が利用されていました。
この地図は1969年の秋葉原駅です。いまの東口はロータリーができて、ヨドバシカメラなどのビル群に囲まれていますが、地図の「相生町」と書かれた下をみると逆L字になった掘割が下側を流れる神田川に通じているのがわかります。さらに「練塀町」と書かれた左側は長い線路が南北にありますが、ここは秋葉原貨物駅です。
秋葉原貨物駅は旅客駅が開業するより早く、上野駅から貨物線が延びてきて1890年にできていました。この地には江戸時代から野菜の市場(神田青果市場)があり、また上野に着いた貨物を市内に輸送するのに神田川の水運を利用するため貨物駅ができました。
この掘割は筆者もよく覚えており、駅側が埋め立てられてもゴミが浮いた運河が残っていました。
隅田川の水運を利用した大規模な貨物駅
この地図も1969年のもので常磐線南千住駅東側に、広大な隅(墨)田川貨物駅があります。
隅田川の北と東から水路が引かれ、駅構内の線路に沿うように伸びています。石炭や木材、農産物などの物資が鉄道から船へ容易に積み替えられることが分かります。
近年は隅田川の水上輸送の船もあまり見かねなくなりましたが、以前は東京港や隅田川貨物駅などから出た曳き舟に曳かれた艀(はしけ)や丸太を組んだ筏(いかだ)が行きかっていました。
地図には東京ガスの工場や紡績会社が、また地図では切れていますが左上の「千住大橋」の少し上流には東京電力千住火力発電所(お化け煙突で有名)など、石炭を燃料とする大工場が林立していた工業地帯でしたが、その運搬は鉄道と水運が担っていました。
現在では環境面からCO2排出の少ない貨物輸送も見直されていますが、道路輸送が未発達な時代の物流は「鉄道+水運」が担っていたのです。